心の山頂へのアタック~繋がる
人は、誰かと繋がっていたい。自分だけではなく、人は常に誰かと繋がっていたい。この事はある意味真実だろう。
マズローの欲求五段階説においても社会的欲求は生存、安全の次に現れる欲求であり、集団への帰属を求めることで安心を得たいという欲求である。安心を得たいという欲求、その裏には何らかの不安から逃れたい、という思いがあり、孤独でいることへの寂しさから芽生えてくるのだろう。
繋がるということ、それは言葉を介して会話、対話、何らかのコミュニケーションを行うということ。
そう、それはもはや思考の対象であり、普段のコミュニケーションは思考ありきで成り立っている。
コミュニケーションの基本、それは相手を思い遣ることだ。つまり、相手がどうして欲しいと思っているのかを推論して、その欲することを行った場合の更に相手の反応をも想像する。気を遣うとは、思考することに他ならない。
最近はSNSでのコミュニケーションが盛んにやり取りされて、相手の顔を見ることなく文字(言葉)の応酬が飛び交う。思い遣りのない誹謗中傷が拡散されて人の命を奪うことにもなる。
仮に自分が中傷されたとしても、思い遣りのない言葉には反応しなければ良い。思考をそこで止めること、一度は自分に向けられた傷つけるための言葉に反応したとしても、即刻思考を止めてしまえば感情が生じることはないし、生じてもそれをいつまでも気にすることもない。これは無関心であるとか無視するということではない。気にしないように努力することでもない。努力しようとすればするほど、その感情はつきまとい、消えることは決してない。
ただただ思考を止めるのだ。努力することなく、そのことを行おうとする意図も伴わず、思考が止むのを凝視するのである。
そうは言っても、それは簡単なことではない。人は他人の視線や考えが気になるものだ。こればかりは止められないし、誰かに認められたいという思いも常々頭の中に溢れている。
なぜこれほど異常に他人に関心を持つのでしょうか。他人の考え方や感情や、またどんなうわさ話をしているかを知りたいというこの欲望は、実際は逃避なのではないでしょうか。それは自分自身から逃れる手段を提供しているのではないでしょうか。
(略)
うわさ話というのは、その中に浸って自分を忘れていられるような一種の興奮ではないでしょうか。
(略)
私たちの多くのものは毎日、新聞を読んで世界中のゴシップを頭に詰め込んでいるのです。それはすべて、私自身からの、また私自身の狭量や卑劣さからの逃避なのです。私たちは世界の事件に表面的な関心を抱くことで、それだけますます賢明になり、私たちの生活の問題を解決できるようになると思っているのです。明らかにこれは自分自身からの逃避の手段ではないでしょうか。私たちの内面は全く空虚で皮相なのです。私たちはそういう自分自身を殊の外恐れているのです。
(略)
避難や正当化は一種の逃避なのです。それゆえ、私たちがなぜうわさ話をするのかということの全体の過程を理解し、そこに含まれている愚かさや残酷さやその他すべてのものを認識したとき、そのとき私たちはあるがままの自分になるのです。
うわさ話も逃避なのだ。自分自身の不安からくるこの何とも言い難い空虚な空間、このポッカリ空いた隙間の中で、我々は思考の操るままに心は彷徨うことになる。
彷徨った心は、拠り所を失い、迷走し、無駄にエネルギーを消費して疲れ果てる。テレビやネットから発信されるどうでもいいニュースを話題にし、怒ったり、悲しんだり、同一化して時間を浪費しているのである。まずはそのことに気づくことだ!人の噂に耳を傾けたり、同調したりすることなく、ああ噂話なのだ、と気づき、そこから離れるのだ。普段雑踏の中で生活しているわけだが、心だけは山に思いを馳せよう。
山での出会いは、言葉を越えた連帯感が自然に生じる。小屋で集えば、誰とでも仲良くなる。そこでは他人を非難したり、噂話に興じる人はいない。
先ほど、コミュニケーションの基本は、相手を思い遣ることだ、と書いたが、何も考えなくとも言葉を介さなくともコミュニケーションは可能である。それは相手をまるごと感じることで可能になる。丸ごとである、一切の思い込み、条件づけ、先入観なしに相手を凝視する。観察する。すると相手の方から自然に開いてくる。
クリシュムナルティ
もし「私」が「あなた」を理解したいと思うなら
「私」は受動的に見詰めていなければならない
そうすると「あなた」の方で
自然にあなたの素性を語りかけてくるものなのである
受動性ーそれは怠惰や眠りではなく
極度に研ぎ澄まされた鋭敏さである
音楽は、人を繋げる力がある。街角に置かれた一台のピアノを誰がが弾き始めると即興で見ず知らずの人がジャンベを打つ。リズムが重なり、ピアノの周りにはいつの間にか聴衆が集まり、一つの音楽で皆が一つに繋がる。言葉ではなく、リズムとメロディーで人は繋がることが出来るのである。なんと素晴らしいことなのだろうか?
山には音がある、メロディーがある。山を歩いていると、鳥の囀り、木々のざわめき、風の音が身体を通り過ぎて行く。
人は言葉ではなく思考を使わずに一つになることも出来るのである。世界はきっと一つになることが出来るのだ。
<目次>
~日常の風景~
~エニアグラムという心の登山地図~
~エニアグラム基本タイプ診断~
~エニアグラム発達の諸段階~
~エニアグラムの統合と分裂の方向~
~心的エネルギー~
~影(シャドー)と仮面(ペルソナ)~
~発達の諸段階1~3を時間をかけて登る~
~エニアグラムのタイプの頂を縦走する~
山頂 空へ〜心の山頂からさらに上へ
その先にあるもの