心の山を登る~I am somebody I am nobody
I am somebody
このブログを書き始めたことには目的があった。お袋が亡くなって何か自分でも残しておきたい、子供らのためにも、自分のためにも、そして願わくば、あわよくば、書籍化して後世に名を残したい、印税で生活したいなど、いわゆるひとかどの人物になりたい、そんな欲望、願望にまみれているのが、この一連の文章なのである。
我々は常に何かになろうとしている。今よりも優れた何者かになろうとするのだ。そのような意志は欲望、願望であり、思考である。そう、ここにも常に思考が働いている。この思考が働いている限り、あるがままの今を見ることはできない。しかし、である。この願望は悪なのか?人は誰でも何者かになろうとして努力をするのではないだろうか?子供はサッカーが上手くなりたくて練習を繰り返し、誰よりも懸命に努力する事で運よくサッカー選手になって夢を叶える人もいる。またより良い大学に入りたいという欲求から勉学に励み、遊ぶ時間を犠牲にしてまでも自分の目標を達成する人もいる。願望、欲求は努力をするためのエネルギーなのだ。
このジレンマはどう捉えたら良いのだろう?一方では何者かになろうとする意志はエネルギーとなり、善なのか?また一方では何者かになろうとする意志は思考であり、悪であるのか?
洞察のある精神の状態は、完全に空っぽである
ほとんどの人々は、「葛藤はなくてはならないものである。さもなければ、どんな生長もない。その葛藤こそが人生の一部だ」と言うであろう。森のなかの1本の樹は、太陽に届こうと闘う。それは一種の葛藤である。あらゆる動物は葛藤の状態にある。そして、人類も知的ではあっても、それでもたえず葛藤の状態にある。さて、そこで不満は、「なぜ私は葛藤しなければならないのだろう?」と言う。葛藤とは、比較、模倣、服従、ある様式への適応、現在から未来にかけて存在するものの修正された継続性を意味するーこれらはすべて葛藤の過程である。葛藤が深ければ深いほど、ますますあなたは神経症的になる。だから、葛藤からのがれるために、あなたは深く神を信じて、「願わくは神の意志が実現されんことを」と言う。そして、われわれはこの奇怪な世界をつくり上げる。
人間は大昔からこの事に気づいている。そして未だにこの葛藤に悩まされている。この葛藤に膨大なエネルギーを注ぎ込んでいる。そこで質問を変えてみる。善か?悪か?ではなく、単純にエネルギーの問題として捉えるならば、葛藤に消費される膨大なエネルギーが、もっと自分の心の自由のために使えるのならば、一体どれ程の恩恵があるのだろうか?
I am nobody
私がなにものでもなければ、何者かになろうとしなければ、葛藤は生じないのだろうか?
私がなにものでもないということは、あるがままのものであることだ。あるがままの今を、あるべきもの(ひとかどの人物になりたい自分)にしようとすると、その境界に隙間が生じる。あるべきものになろうとするエネルギーを注ぎ込めば注ぎ込むだけ隙間は大きくなり、決して埋まることはない。注ぎ込まれた膨大なエネルギーは隙間の中の自我という怪物に与えられ、自我は途方もなく大きくなっていく。巨大化した自我は隙間を更に大きくし、もはやあるがままのものは遥か彼方に追いやられ、捉えることさえ不可能だろう。
あるべきものになろうとする欲求、それを止めることは可能なのだろうか?
その答えは自ずから出ている。思考を止めるのだ。
自我を肥大化させる膨大なエネルギーを、今あるがままのものに使えるならば、そのエネルギーは一体どこに向かうのだろうか?このエネルギーに満ちた状態は一体何と呼ばれるのだろうか?
心の頂上のその先にある空には、そのエネルギーが満ち溢れているのだろうか?
今はまず、心の頂に立ってみたい。そこから何が見えるのか?確かめてみたい。
そろそろ山頂へのアタックを試みてみたい。
それには、もうこのブログは必要ないのかも知れない。これ以上書く必要はないのかも知れない。もう言葉は必要ない。思考は必要ないのだ。
#心の登山 #夏山 #山と道 #山と空 #槍ヶ岳 #しんどい #登山 #アウトドア #山が好き #山好きな人と繋がりたい
<目次>
~日常の風景~
~エニアグラムという心の登山地図~
~エニアグラム基本タイプ診断~
~エニアグラム発達の諸段階~
~エニアグラムの統合と分裂の方向~
~心的エネルギー~
~影(シャドー)と仮面(ペルソナ)~
~発達の諸段階1~3を時間をかけて登る~
~エニアグラムのタイプの頂を縦走する~
心の山頂へのアタック~繋がる
人は、誰かと繋がっていたい。自分だけではなく、人は常に誰かと繋がっていたい。この事はある意味真実だろう。
マズローの欲求五段階説においても社会的欲求は生存、安全の次に現れる欲求であり、集団への帰属を求めることで安心を得たいという欲求である。安心を得たいという欲求、その裏には何らかの不安から逃れたい、という思いがあり、孤独でいることへの寂しさから芽生えてくるのだろう。
繋がるということ、それは言葉を介して会話、対話、何らかのコミュニケーションを行うということ。
そう、それはもはや思考の対象であり、普段のコミュニケーションは思考ありきで成り立っている。
コミュニケーションの基本、それは相手を思い遣ることだ。つまり、相手がどうして欲しいと思っているのかを推論して、その欲することを行った場合の更に相手の反応をも想像する。気を遣うとは、思考することに他ならない。
最近はSNSでのコミュニケーションが盛んにやり取りされて、相手の顔を見ることなく文字(言葉)の応酬が飛び交う。思い遣りのない誹謗中傷が拡散されて人の命を奪うことにもなる。
仮に自分が中傷されたとしても、思い遣りのない言葉には反応しなければ良い。思考をそこで止めること、一度は自分に向けられた傷つけるための言葉に反応したとしても、即刻思考を止めてしまえば感情が生じることはないし、生じてもそれをいつまでも気にすることもない。これは無関心であるとか無視するということではない。気にしないように努力することでもない。努力しようとすればするほど、その感情はつきまとい、消えることは決してない。
ただただ思考を止めるのだ。努力することなく、そのことを行おうとする意図も伴わず、思考が止むのを凝視するのである。
そうは言っても、それは簡単なことではない。人は他人の視線や考えが気になるものだ。こればかりは止められないし、誰かに認められたいという思いも常々頭の中に溢れている。
なぜこれほど異常に他人に関心を持つのでしょうか。他人の考え方や感情や、またどんなうわさ話をしているかを知りたいというこの欲望は、実際は逃避なのではないでしょうか。それは自分自身から逃れる手段を提供しているのではないでしょうか。
(略)
うわさ話というのは、その中に浸って自分を忘れていられるような一種の興奮ではないでしょうか。
(略)
私たちの多くのものは毎日、新聞を読んで世界中のゴシップを頭に詰め込んでいるのです。それはすべて、私自身からの、また私自身の狭量や卑劣さからの逃避なのです。私たちは世界の事件に表面的な関心を抱くことで、それだけますます賢明になり、私たちの生活の問題を解決できるようになると思っているのです。明らかにこれは自分自身からの逃避の手段ではないでしょうか。私たちの内面は全く空虚で皮相なのです。私たちはそういう自分自身を殊の外恐れているのです。
(略)
避難や正当化は一種の逃避なのです。それゆえ、私たちがなぜうわさ話をするのかということの全体の過程を理解し、そこに含まれている愚かさや残酷さやその他すべてのものを認識したとき、そのとき私たちはあるがままの自分になるのです。
うわさ話も逃避なのだ。自分自身の不安からくるこの何とも言い難い空虚な空間、このポッカリ空いた隙間の中で、我々は思考の操るままに心は彷徨うことになる。
彷徨った心は、拠り所を失い、迷走し、無駄にエネルギーを消費して疲れ果てる。テレビやネットから発信されるどうでもいいニュースを話題にし、怒ったり、悲しんだり、同一化して時間を浪費しているのである。まずはそのことに気づくことだ!人の噂に耳を傾けたり、同調したりすることなく、ああ噂話なのだ、と気づき、そこから離れるのだ。普段雑踏の中で生活しているわけだが、心だけは山に思いを馳せよう。
山での出会いは、言葉を越えた連帯感が自然に生じる。小屋で集えば、誰とでも仲良くなる。そこでは他人を非難したり、噂話に興じる人はいない。
先ほど、コミュニケーションの基本は、相手を思い遣ることだ、と書いたが、何も考えなくとも言葉を介さなくともコミュニケーションは可能である。それは相手をまるごと感じることで可能になる。丸ごとである、一切の思い込み、条件づけ、先入観なしに相手を凝視する。観察する。すると相手の方から自然に開いてくる。
クリシュムナルティ
もし「私」が「あなた」を理解したいと思うなら
「私」は受動的に見詰めていなければならない
そうすると「あなた」の方で
自然にあなたの素性を語りかけてくるものなのである
受動性ーそれは怠惰や眠りではなく
極度に研ぎ澄まされた鋭敏さである
音楽は、人を繋げる力がある。街角に置かれた一台のピアノを誰がが弾き始めると即興で見ず知らずの人がジャンベを打つ。リズムが重なり、ピアノの周りにはいつの間にか聴衆が集まり、一つの音楽で皆が一つに繋がる。言葉ではなく、リズムとメロディーで人は繋がることが出来るのである。なんと素晴らしいことなのだろうか?
山には音がある、メロディーがある。山を歩いていると、鳥の囀り、木々のざわめき、風の音が身体を通り過ぎて行く。
人は言葉ではなく思考を使わずに一つになることも出来るのである。世界はきっと一つになることが出来るのだ。
<目次>
~日常の風景~
~エニアグラムという心の登山地図~
~エニアグラム基本タイプ診断~
~エニアグラム発達の諸段階~
~エニアグラムの統合と分裂の方向~
~心的エネルギー~
~影(シャドー)と仮面(ペルソナ)~
~発達の諸段階1~3を時間をかけて登る~
~エニアグラムのタイプの頂を縦走する~
山頂 空へ〜心の山頂からさらに上へ
その先にあるもの
心の山頂へのアタック~今日も山を歩く
山の上で今まで見たことのない素晴らしい景色に出会った時、人は言葉を失う。そう、言葉、つまり思考を失うのである。その時、目の前のあるがままの自然の姿に心を奪われ、時が経つのを忘れる一瞬がある。だがしかし、いつの間にか自我である〈私〉が出てきて、綺麗な景色だ!忘れたくない!写真を撮ろうなどと言う。もうこうなると次から次へと思考が働き、あの時出会ったあるがままの自然は過去のものとなり、二度と出会うことは出来ない。
思考が止まる時、それは過去の記憶、経験をとてつもなく上回るような全く新しい体験に出会う時、その瞬間は左脳の思考回路がオーバーシュートして右脳の感覚回路が活性化するのだろうか?
そんな体験を今は大切にしたい。
懸命に山を歩いていると、疲れた身体とは裏腹に頭の中は鳥の声や風の音、川のせせらぎが聞こえてきて心が澄みきってくる瞬間がある。ところが直に歩くリズムに合わせて音楽がリフレインされ、頭の中はメロディーで一杯になる。今度はそのリフレインに合わせて歩を進めていると何時しか身体を休めたくなる。ふと切り株に腰掛け、大きく深呼吸をすると音楽は止み、いつの間にか深い静寂と目の前の森の中に一人佇んでいた。ほんの少しだけ、思考は止まっていたのだろう。
こんな思考が止まる経験を、体験を重ねて行くことが今のところ自分に出来る精一杯だ。
クリシュナムルティ「瞑想」より抜粋
瞑想は
目的にいたるための手段ではありません
瞑想には
どんな目的もなく
どんな到達点もありません
瞑想は
時間の中にあってもおこり
時間の外にあってもおこります
瞑想の方式や方法というのは
どんなものでも
思考を時間に縛りつけてしまいます
そうではなく
思考や感情のすべてに
なんら選ぶことなく気づき
それらを動かす原因や その仕組みを理解し
それらが花ひらくままにしておくことこそ
瞑想のはじまりです
思考と感情が よく育ち そして死んでいくとき
瞑想は 時間を越えた動きになります
この動きのなかには
エクスタシーがあります
完全なる虚空のなかに
愛があります
そして愛とともに
破壊と創造があるのです
#六甲山 #縦走路 #みよし観音 #心の登山
#六甲山 #縦走路 #雨粒 #初夏 #心の登山
<目次>
~日常の風景~
~エニアグラムという心の登山地図~
~エニアグラム基本タイプ診断~
~エニアグラム発達の諸段階~
~エニアグラムの統合と分裂の方向~
~心的エネルギー~
~影(シャドー)と仮面(ペルソナ)~
~発達の諸段階1~3を時間をかけて登る~
~エニアグラムのタイプの頂を縦走する~
山頂 空へ〜心の山頂からさらに上へ
その先にあるもの
心の山頂へのアタック
心の山頂へのアタック
今、我々が生きているこの時代、争いは終わることなく様々な態様で至る所で噴き出している。世界の各地で民族や人種を巡る紛争が止まず、身の回りに目を移せば小さな言い争いから、恨みや妬みを伴う嫌がらせ、男女の愛憎、家庭の不和など。それらが入り混じり、世の中全体が神経症に罹患っているかのようである。
家の中でも仕事場でも無数の溜息が聞こえる。その溜息からは多くのエネルギーが漏れ出している。
こんなことはきっと今に始まったことではない、もっとずっとずっと昔から、人が集団で暮らし始めてから古より闘争、葛藤は続いている。
生存をかけた闘いは動物たちも行っている。生物は殺し合い、食い、逃げ、騙し合いながら生命を繋げてきたのだ。そして人間は進化した大脳を使って未だに無意味な争いを続けている。
なぜ?
その答えを得るためなのか?、一冊の本に出会った。その書籍の名は『自我の終焉ー絶対自由への道』(J・クリシュナムーティ)
その本の表紙カバーに次のように書いてある。
クリシュナムーティは、生存中から伝説的人物になった数少ない人間の一人である・・・・というのは、クリシュナムーティが、心理の領域で成し遂げたことは、物理学においてアインシュタインが行った革命に匹敵すると言ってよいからである。アインシュタインの相対性理論は、光の速度は光源からの運動や光源へ向かう運動とは関係なく、すべての状況において不変である、という単純な事実を出発点にしている。一方クリシュナムーティの出発点もそれと同じような単純な観察に基づいている。それは、すべての心理的な苦悩は精神の中で始まり、またその中で終るということである。つまり「精神は自らが作り出した牢獄である」。したがって、変革と苦悩からの開放は、絶え間ない精神の活動が終焉することによってのみ、達成することができる。ロバート・パウエル 〜 『禅と真実在』より
心の頂を目指してここまで登ってきた。古の智恵と見聞を頼りに、道を探してここまで登ってきた。ここからの山頂へのアタックには必要なものだけを身に付けて登ろう、必要でないものは此処に置いていく。少しでも軽く、1gでも荷は少ないほうが良い。
今まで(1合目から9合目まで)の知識、理論の中で最も”根本的な問い”のみを持って登ることにする。
各タイプの根本的な囚われ、不安、恐れなどは突き詰めれば全て感情である。では感情とは何から生じるのか?それは思考から生じる。思考とはなんだろう?と思考すると、思考という行為は思考するということであり、思考と思考する行為は分けることが出来ない。
ここまで登ってきて出会うことになったクリシュナムーティの著書。クリシュナムルティによると思考とは、次のようなものだ。
思考とは、頭脳の中に記憶として蓄積された、知識、経験からくる反応であると。そして知識、経験は時間に由来する全て過去のものである。
そうであるならば、過去の知識、経験からの反応である思考も過去の反映であり、決して今この瞬間のありのままのものをつかみ取ることは出来ない、感じることは出来ない、思考と感情は不可分なのだ。思考が有る限り、感情も在り続ける。一生懸命考えたところでどうすることも出来ない、思考を止めることだけが、唯一心理的な感情を生み出さない方法なのである。
思考を止めることは可能だろうか?電気的な刺激を脳に与えることで一時的に思考を止めることは出来る。また外科的な執刀を行うことで永久に思考を奪うことも可能だろう。
そうではなく、自分の意思で思考を止めることは可能だろうか?
今、このように文字(言葉)を使って思考を止める方法を考えても無駄であろう。つまり、1合目から9合目まで懸命に紡いできた今までの言葉(文字)は無駄だったのである。思考で思考は止められない。なんということであろう!?心の高度を上げようと様々な書物(文字)を読み、考え、自分なりの理論(思考)を説明してきたことは全くの無駄だったのである!
しかし、ここまで(9合目)まで登って来れたからこそ、この無駄が理解でき、この無駄を捨て去ることで、頂上へのアタックへの可能性が現れてきたのだ。それはガスで覆われた自分の心の山の頂上が朧気ながらも見えてきたということだ。
もう少し、視界が晴れるまで、入念に準備をしよう。急ぐことはない、山の天気は自分にどうにか出来るものではない。アタックに相応しい準備が揃い、天の恵みが自然に訪れるまではジタバタせず、心を調えてひたすら待つのだ。
心の山頂アタックに備えて
ベースキャンプに置いていくもの
恐れ、不安、怒り、欲望、嫉妬や妬みなどの負の感情
アタックザックに入れていくもの
<瞑想>
「瞑想とは、意識の中身を空にすることである」
瞑想は、生において最も重要なもののひとつである。しかし、重要なのは、どのように瞑想するかでもなく、方式に従った瞑想でもなく、瞑想の習慣的実践でもなく、むしろ瞑想そのものである。その意義、必要性、重要性を、自分で深く見出すことができれば、そのときには人は、あらゆる方式、技法、導師を放棄すると同時に、東洋的な瞑想に見られるような奇妙な儀式や事象をもすべて放棄する。
実際にあるがままの自分の姿を、自分の力であばくことは、きわめて重要である。心理学者や哲学者やグルの理論、主張、体験に従ってではなく、むしろ自分自身の本性と運動の全体を探求することによって、実際にあるがままの自分を見ることによって、そうすることが重要なのである。
(略)
あるがままの自分を見ること自体が、すでに変容のはじまりである。瞑想とは、内面的に、したがって外面的にも、あらゆる衝突や葛藤の終焉を意味する。実際のところ、内面や外面というものはない。それはあたかも海のように満ち干きしている。
実際にあるがままの自分をあばくとき、人はこう問う。観察者、自分自身は、自分が観察する対象と違うものだろうか?ただし、心理的にである。私は怒っている、私は貪欲だ、私は暴力的だ・・・・その<私>は、観察されるものー怒り、貪欲、暴力ーとは別個のものだろうか、別の存在だろうか?明らかに否である。怒っているときには怒っている<私>は存在しない。存在するのは、ただ怒りだけである。だから怒りは<私>であり、観察するものは観察されるものである。両者の区別はまったく消し去られる。観察者とは観察されるものであることがわかり、それゆえに葛藤はおのずとやむ。
瞑想の役目は、内面的に、したがって外面的にもあらゆる葛藤を完全に消し去ることである。葛藤を消し去るためには、この基本原理を理解しなければならない。「心理的に、観察者とはじつは観察されるものにほかならない」ー。怒りがあるとき、そこに<私>はいない。だが、一瞬後に思考が<私>をつくり出し、「私はいま怒った」と言う。そして、「私は怒るべきではない」という考えをもちこむ。だからまず怒りがあって、しかるのちに、怒るべきではない<私>が出てくる。その分裂が葛藤を生むのである。
観察する者と観察されるものとの間に分裂がなく、したがって、あるのはただあるがままの実体、すなわち怒りだけだとしたら、そのときには何が起こるだろうか?怒りは続くだろうか、それとも怒りは花開いてそしてしぼむ。さながら一輪の花のように、それは咲き、枯れ、そして消え去る・・・・。しかし怒りと闘っているかぎり、怒りに抵抗し、怒りを正当化しているかぎり、人は怒りに活力を与えていることになる。観察する者が観察されるものであるとき、怒りは花開き、成長し、おのずと死ぬーしたがって、そのなかには心理的な葛藤はない。
(略)
瞑想とは何かを見出すにあたって、これが瞑想だと考えられているこれまでのいっさいの知識は、その探求の妨げになる。だから心理上の権威からの自由が絶対に必要である。その探求に欠かせないものは何か?精神集中か、留意か、それとも気づきか?精神集中するときには、その人の全エネルギーは何か特定の対象に集中され、干渉してくる思考すべてに抵抗し、それを排除する。精神集中にあっては、人は抵抗している。しかし、自分の思考に気づくにはどんな精神集中もいらない。気づきにおいては、自分のどの思考が好きかという選択はしない。ただ気づいているだけである。その気づきから留意が生じる。留意にあっては、自分の注意の起点となるような中心はない。これを理解することはきわめて重要である。それは瞑想の本質である。精神集中にあっては、心象、観念、表象などへの精神集中の起点となる中心がある。そして、ほかの思考が入らないように集中し、抵抗し、壁を築こうとエネルギーを使っているから、必然的に葛藤が生じる。その葛藤を全面的に消し去りたかったら、選ばないで思考に気づきなさい。そうすれば、どんな思考についても、矛盾、抵抗はなくなる。そこから気づきが、自分の思考のあらゆる動きについての気づきが起こる。その気づきから留意がでてくる。真に深く何かに注意するときには、中心つまり<私>は、いない。
留意においてはーもしもその境地まで行けたらー、人は思考の苦役のすべてから解放される。その恐怖、苦悶、絶望から解放される。それが根本である。自分の意識の中身が空っぽになり、解放されていくのである。瞑想とは、意識の中身を空にすることである。意識の中身のすべてを空っぽにすること、思考、想念が終息すること、それが瞑想の意味、瞑想の深さである。
#心の登山 #夏山 #槍ヶ岳 #山と道 #青空 #気持ちいい #登山 #アウトドア #山が好き #山好きな人と繋がりたい
その時が来るまで、機が満ちるまで、いましばらく待つことにしよう。いつものように山に登りながら、山をあるきながら、ご苦労山、お疲れ山、ありが登山。
<目次>
~日常の風景~
~エニアグラムという心の登山地図~
~エニアグラム基本タイプ診断~
~エニアグラム発達の諸段階~
~エニアグラムの統合と分裂の方向~
~心的エネルギー~
~影(シャドー)と仮面(ペルソナ)~
~発達の諸段階1~3を時間をかけて登る~
~エニアグラムのタイプの頂を縦走する~
山頂 空へ〜心の山頂からさらに上へ
その先にあるもの