心の山頂へのアタック
心の山頂へのアタック
今、我々が生きているこの時代、争いは終わることなく様々な態様で至る所で噴き出している。世界の各地で民族や人種を巡る紛争が止まず、身の回りに目を移せば小さな言い争いから、恨みや妬みを伴う嫌がらせ、男女の愛憎、家庭の不和など。それらが入り混じり、世の中全体が神経症に罹患っているかのようである。
家の中でも仕事場でも無数の溜息が聞こえる。その溜息からは多くのエネルギーが漏れ出している。
こんなことはきっと今に始まったことではない、もっとずっとずっと昔から、人が集団で暮らし始めてから古より闘争、葛藤は続いている。
生存をかけた闘いは動物たちも行っている。生物は殺し合い、食い、逃げ、騙し合いながら生命を繋げてきたのだ。そして人間は進化した大脳を使って未だに無意味な争いを続けている。
なぜ?
その答えを得るためなのか?、一冊の本に出会った。その書籍の名は『自我の終焉ー絶対自由への道』(J・クリシュナムーティ)
その本の表紙カバーに次のように書いてある。
クリシュナムーティは、生存中から伝説的人物になった数少ない人間の一人である・・・・というのは、クリシュナムーティが、心理の領域で成し遂げたことは、物理学においてアインシュタインが行った革命に匹敵すると言ってよいからである。アインシュタインの相対性理論は、光の速度は光源からの運動や光源へ向かう運動とは関係なく、すべての状況において不変である、という単純な事実を出発点にしている。一方クリシュナムーティの出発点もそれと同じような単純な観察に基づいている。それは、すべての心理的な苦悩は精神の中で始まり、またその中で終るということである。つまり「精神は自らが作り出した牢獄である」。したがって、変革と苦悩からの開放は、絶え間ない精神の活動が終焉することによってのみ、達成することができる。ロバート・パウエル 〜 『禅と真実在』より
心の頂を目指してここまで登ってきた。古の智恵と見聞を頼りに、道を探してここまで登ってきた。ここからの山頂へのアタックには必要なものだけを身に付けて登ろう、必要でないものは此処に置いていく。少しでも軽く、1gでも荷は少ないほうが良い。
今まで(1合目から9合目まで)の知識、理論の中で最も”根本的な問い”のみを持って登ることにする。
各タイプの根本的な囚われ、不安、恐れなどは突き詰めれば全て感情である。では感情とは何から生じるのか?それは思考から生じる。思考とはなんだろう?と思考すると、思考という行為は思考するということであり、思考と思考する行為は分けることが出来ない。
ここまで登ってきて出会うことになったクリシュナムーティの著書。クリシュナムルティによると思考とは、次のようなものだ。
思考とは、頭脳の中に記憶として蓄積された、知識、経験からくる反応であると。そして知識、経験は時間に由来する全て過去のものである。
そうであるならば、過去の知識、経験からの反応である思考も過去の反映であり、決して今この瞬間のありのままのものをつかみ取ることは出来ない、感じることは出来ない、思考と感情は不可分なのだ。思考が有る限り、感情も在り続ける。一生懸命考えたところでどうすることも出来ない、思考を止めることだけが、唯一心理的な感情を生み出さない方法なのである。
思考を止めることは可能だろうか?電気的な刺激を脳に与えることで一時的に思考を止めることは出来る。また外科的な執刀を行うことで永久に思考を奪うことも可能だろう。
そうではなく、自分の意思で思考を止めることは可能だろうか?
今、このように文字(言葉)を使って思考を止める方法を考えても無駄であろう。つまり、1合目から9合目まで懸命に紡いできた今までの言葉(文字)は無駄だったのである。思考で思考は止められない。なんということであろう!?心の高度を上げようと様々な書物(文字)を読み、考え、自分なりの理論(思考)を説明してきたことは全くの無駄だったのである!
しかし、ここまで(9合目)まで登って来れたからこそ、この無駄が理解でき、この無駄を捨て去ることで、頂上へのアタックへの可能性が現れてきたのだ。それはガスで覆われた自分の心の山の頂上が朧気ながらも見えてきたということだ。
もう少し、視界が晴れるまで、入念に準備をしよう。急ぐことはない、山の天気は自分にどうにか出来るものではない。アタックに相応しい準備が揃い、天の恵みが自然に訪れるまではジタバタせず、心を調えてひたすら待つのだ。
心の山頂アタックに備えて
ベースキャンプに置いていくもの
恐れ、不安、怒り、欲望、嫉妬や妬みなどの負の感情
アタックザックに入れていくもの
<瞑想>
「瞑想とは、意識の中身を空にすることである」
瞑想は、生において最も重要なもののひとつである。しかし、重要なのは、どのように瞑想するかでもなく、方式に従った瞑想でもなく、瞑想の習慣的実践でもなく、むしろ瞑想そのものである。その意義、必要性、重要性を、自分で深く見出すことができれば、そのときには人は、あらゆる方式、技法、導師を放棄すると同時に、東洋的な瞑想に見られるような奇妙な儀式や事象をもすべて放棄する。
実際にあるがままの自分の姿を、自分の力であばくことは、きわめて重要である。心理学者や哲学者やグルの理論、主張、体験に従ってではなく、むしろ自分自身の本性と運動の全体を探求することによって、実際にあるがままの自分を見ることによって、そうすることが重要なのである。
(略)
あるがままの自分を見ること自体が、すでに変容のはじまりである。瞑想とは、内面的に、したがって外面的にも、あらゆる衝突や葛藤の終焉を意味する。実際のところ、内面や外面というものはない。それはあたかも海のように満ち干きしている。
実際にあるがままの自分をあばくとき、人はこう問う。観察者、自分自身は、自分が観察する対象と違うものだろうか?ただし、心理的にである。私は怒っている、私は貪欲だ、私は暴力的だ・・・・その<私>は、観察されるものー怒り、貪欲、暴力ーとは別個のものだろうか、別の存在だろうか?明らかに否である。怒っているときには怒っている<私>は存在しない。存在するのは、ただ怒りだけである。だから怒りは<私>であり、観察するものは観察されるものである。両者の区別はまったく消し去られる。観察者とは観察されるものであることがわかり、それゆえに葛藤はおのずとやむ。
瞑想の役目は、内面的に、したがって外面的にもあらゆる葛藤を完全に消し去ることである。葛藤を消し去るためには、この基本原理を理解しなければならない。「心理的に、観察者とはじつは観察されるものにほかならない」ー。怒りがあるとき、そこに<私>はいない。だが、一瞬後に思考が<私>をつくり出し、「私はいま怒った」と言う。そして、「私は怒るべきではない」という考えをもちこむ。だからまず怒りがあって、しかるのちに、怒るべきではない<私>が出てくる。その分裂が葛藤を生むのである。
観察する者と観察されるものとの間に分裂がなく、したがって、あるのはただあるがままの実体、すなわち怒りだけだとしたら、そのときには何が起こるだろうか?怒りは続くだろうか、それとも怒りは花開いてそしてしぼむ。さながら一輪の花のように、それは咲き、枯れ、そして消え去る・・・・。しかし怒りと闘っているかぎり、怒りに抵抗し、怒りを正当化しているかぎり、人は怒りに活力を与えていることになる。観察する者が観察されるものであるとき、怒りは花開き、成長し、おのずと死ぬーしたがって、そのなかには心理的な葛藤はない。
(略)
瞑想とは何かを見出すにあたって、これが瞑想だと考えられているこれまでのいっさいの知識は、その探求の妨げになる。だから心理上の権威からの自由が絶対に必要である。その探求に欠かせないものは何か?精神集中か、留意か、それとも気づきか?精神集中するときには、その人の全エネルギーは何か特定の対象に集中され、干渉してくる思考すべてに抵抗し、それを排除する。精神集中にあっては、人は抵抗している。しかし、自分の思考に気づくにはどんな精神集中もいらない。気づきにおいては、自分のどの思考が好きかという選択はしない。ただ気づいているだけである。その気づきから留意が生じる。留意にあっては、自分の注意の起点となるような中心はない。これを理解することはきわめて重要である。それは瞑想の本質である。精神集中にあっては、心象、観念、表象などへの精神集中の起点となる中心がある。そして、ほかの思考が入らないように集中し、抵抗し、壁を築こうとエネルギーを使っているから、必然的に葛藤が生じる。その葛藤を全面的に消し去りたかったら、選ばないで思考に気づきなさい。そうすれば、どんな思考についても、矛盾、抵抗はなくなる。そこから気づきが、自分の思考のあらゆる動きについての気づきが起こる。その気づきから留意がでてくる。真に深く何かに注意するときには、中心つまり<私>は、いない。
留意においてはーもしもその境地まで行けたらー、人は思考の苦役のすべてから解放される。その恐怖、苦悶、絶望から解放される。それが根本である。自分の意識の中身が空っぽになり、解放されていくのである。瞑想とは、意識の中身を空にすることである。意識の中身のすべてを空っぽにすること、思考、想念が終息すること、それが瞑想の意味、瞑想の深さである。
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その時が来るまで、機が満ちるまで、いましばらく待つことにしよう。いつものように山に登りながら、山をあるきながら、ご苦労山、お疲れ山、ありが登山。
<目次>
~日常の風景~
~エニアグラムという心の登山地図~
~エニアグラム基本タイプ診断~
~エニアグラム発達の諸段階~
~エニアグラムの統合と分裂の方向~
~心的エネルギー~
~影(シャドー)と仮面(ペルソナ)~
~発達の諸段階1~3を時間をかけて登る~
~エニアグラムのタイプの頂を縦走する~
山頂 空へ〜心の山頂からさらに上へ
その先にあるもの